Vol.30 外三合 弓矢と勁 番外編(後編)

今回のテーマである弓矢(弓箭)も時代の変化の中で次第に立ち位置を変えてきた。弓矢を取り巻く環境は、現代の多くの人にとっては身近ではないかもしれない。
私たちの身の回りを見渡してみるとさまざまな道具に囲まれている。そうした道具は、時代とともに改良されてきた。家庭用の電化製品に至っては、わずか百数十年の歴史である。道具の進化には、天才の出現による功績も 大きいが、社会背景の変化も見逃せない。
この文章をきっかけに自分たちの身の回りすべてが、過去の先人あるいは先祖の歴史の積み重ねであることに思いをはせていただくと良いと思う。イメージを広げていくきっかけになれば幸いである。

前回は、古来より弓矢が「武芸の筆頭(第一番目)」であることを文献を中心に確認してみた。
今回は、第一に日本において弓が刀剣へと「武芸の筆頭」を譲り渡した背景を見てみたい。
第二に中国では、弓から槍・刀・剣へさらに徒手空拳の拳術へと日本とは異なった方向へと発展した流れをみてみよう。
第三に番外編後編のしめくくりとして、日本と中国の双方において武器(兵器)に対する考え方が異なる点を見てみたい。

【弓から刀へ】

日本では武士を「弓取(ゆみとり)」といったように、弓矢の射芸を第一に重視して来た。源平の合戦では、名のある騎馬武者たちの一騎打ちが主たる戦いであったが、時代が下がるにつれ集団戦へと変化していった。農閑散期の農民を短期間で養成し、多数の雑兵(農民兵)が戦に加わるようになったのである。集団戦での武器は、空間的に制限される薙刀のように振り回すものよりも、密集して直線的に突くという槍の方が有利で、また製作もより簡単かつ安価な槍が重宝された。室町時代以降の武芸は、戦闘形式が弓矢を用いる遠い間合いの遠方形式から近い間合いの白兵戦(刀を持った歩兵のこと)に変化したことで、剣術が武士の表芸となっていった。戦国時代には武術が専門分化し、弓術・槍術・剣術・柔術などはそれぞれ天才的な伝承者によって流派を形成した。特に剣術においては顕著で、諸流派の兵法三大源流(※1)をはじめとして諸流派が展開した。弓や馬が上級武士を中心に修習されたのに対し、剣術は上下の身分の関係なく広く修習するようになった。剣術を中心に弓術・柔術・槍術などを併修する傾向に変化したのである。柔術では、剣術を封じることを主な目的で発展しており、伝承されている技術をみると想定する仮想敵は剣術が多い。杖術なども刀剣の操法と共通性が多いのも剣術が表芸となったためといえる。

【弓から拳へ】

中国においても古代より宋代に至るまで、弓が最も重要な武芸であり、軍隊あるいは民間においても弓が最も重要な武術として重視されていた。日本で「弓馬」と言われていたように中国では「騎射」と言い、馬上から弓矢の射芸を重視している。明代になると最終的な勝敗は槍の技法の優劣によって決するという認識が、軍隊だけでなく広く民間にも浸透した。槍は中国では「百兵の王」とされている。明朝から清朝にかけて中国武術では、徒手空拳の拳術・拳法に流派が集約される傾向にあった。宋代までは、刀・剣・槍でそれぞれ一門派を形成していたが、明朝になると槍法の原理から徒手空拳の門派が創出される例も見られ、それぞれの門派では、徒手空拳を中心に刀・剣・槍など各種兵器を併修するスタイルが一般的になった。各種兵器は、単に門派に付随するだけの補助科目でなく、兵器の修練によって門派を成り立たせている原理の理解を深め、徒手空拳が上達する役割も加わった。 弓に代わって兵器ではなく、徒手空拳が中心となった背景として元王朝から始まった民間に対する禁武政策が、明王朝さらに清王朝にいたるまで継続したことも見逃せない。当初は、兵器に対する制限であったものが次第に徒手空拳に対してもひろがっていった。兵器に対する制限によって次第に徒手空拳が盛んになっていったからである。王朝に対する抵抗や反乱に対して過敏な反応を行ったためであるが、沖縄においても空手が素手を中心として発展していったことと似ていると思われる。禁武政策の影響については改めて別の機会でも触れてみたい。

【精神性と実用性】

番外編のしめくくりとして日中の武器に対する考え方の違いを見てみよう。

日本では、弓矢や刀剣は、精神性や宗教儀礼との結びつきが強い。特に刀剣は三種の神器の一つで、生命力を超えて邪気を祓い(はらい)神が宿ると考えられた。江戸時代には、精神性の支柱となり日本刀は「武士の魂」を表わすようになった。日本刀は武士道の精神性と芸術性を兼ね備え、日本が世界に誇る至高の美術品としてその地位を築いている。弓矢も精神修養の道としての発展を遂げた。

一方、中国では宝剣のような例もあるが兵器(武器)に対する考え方は全く異なり、あくまで実用の道具として割り切っている。刀が刃こぼれや曲がったり、槍が折れたりしたら敵の武器を奪い次々と対処し、合理性に徹している。賊に襲われた場合において、自分が仮に素手あるいは手持ちが最低限の兵器であった場合でも賊の兵器を奪い取り対処する。この場合、武術家には賊に対処する意念(相手に対処する時のイメージコントロール)として次のように伝えられている。魚釣りに例えるなら、魚(賊)を釣るための餌(えさ)が自らの身体であるとイメージしている。もう一つ身近な例えだと相手の行動が自分の思惑通りで、都合がよいことを意味する「鴨が葱を背負って来る(しょってくる)」が意味合いとして近い。賊が、私の使う兵器を準備して持ってきてくれるのだ。もちろん日本においても同様に合戦において敵の武器を取ってでも可能な限り戦い続ける心構えはあるが、一般に「刀折れ矢尽きる」(※2)のイメージが強いかもしれない。

※1 兵法三大源流(ひょうほうさんだいげんりゅう、「兵法」は「へいほう」とも読む)は、新陰流の元になった陰流、神道流(新当流)、念流の3つの剣術流儀を指す総称である。現代に残る剣術流派の元を辿るとほとんどが、いわゆる兵法三大源流と呼ばれる三流派に行き当たる。

※2 本来、出典は中国である。激戦の末、刀が折れ、矢も尽き果てて、精魂ともに尽きることを指す。「刀折矢盡」(とうせつしじん)の四字熟語もある。 『後漢書』に「馬を下りて大いに戦い、日中に至り、刀折れ矢尽き、慮も亦た引退す」とある。「刀折れ矢尽き」について日本語では、自らの刀や矢の状態を示すが、原文を見ると全く別の解釈が見て取れる。ネットのコトバンクによると「正午ごろになると刀折れ矢尽く(刀は折れて矢もなくなる)という状態になったが、その奮戦ぶりに恐れをなして、異民族は引き上げていった。」とある。日本語の努力空しく戦う手段をすっかり使い果たすといった意味合いとは異なっている。このように原典が同じでも日中で解釈が異なる例は多く、興味がつきない。

参考文献・論文
武道の歴史とその精神 概説   魚住 孝至
中国明代における槍術の実態に関する研究
 ─槍術流派・槍術体系・槍術訓練を中心に─ 林伯原

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