Vol.2 太極拳の多面性

「太極拳」と聞いて、皆さんは何をイメージするだろうか?早朝の公園でゆったりと動く健康法?表演大会で颯爽と魅せる動き?中国三千年の歴史?気功法の一種?まさかのカンフー?等々…さまざまなイメージがある。

「群盲象を評す」(ぐんもう、ぞうをひょうす)ということわざがある。数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話だ。ある者は象の足をさわり、「柱のようだ」といい、耳をさわった者は「大きな団扇(うちわ)のようだ」、尾をさわったものは「蛇のようだ」、わき腹をさわった者は「壁のようだ」と言った。「木を見て森を見ず」と同様に使うこともあり、真実は多面的であり、一部分だけをみると全体を見誤るという教訓である。

本来、太極拳は河南省の片田舎で脈々と伝えられた武術であった。ただ太極の名を冠する一派として命名されたのは19世紀の近世になってからのことだ。古来武術家は、自己の寿命を削ってでも業(わざ)を身につけようとしてきた。武術としての太極拳も同じで、長年にわたり専門的に厳しく修練してはじめて体得できるものだった。

しかし、平和な現代においては、その中の大切な練習法として深く呼吸すると同時にゆっくり動く部分が次第に養生法や健康法としても注目され始めた。世界的にも、太極の中国語の発音からタイチ(Taichi)と親しまれている。本来思想や哲学であった老子や道家の「道」タオ(Tao)との深い関係から、天地自然に抱かれ、無為自然に生かされるという、生き方としても受け入れられている。

太極とは、宇宙の根源で大自然の森羅万象すべてを包み込む根本原理を意味している。太極拳は、本来は武術の一流派であったものが、健康法・思想や哲学までも取り込み、武術から独立した側面も世界に受け入れられている。太極拳・タイチは、今や中国を代表するシンボル的存在といえるだろう。

私は現代の太極拳の全体像をバランスよくお話しすることはできない。ただ、武術としての太極拳を通して健康法や思想、哲学としてのみの太極拳・タイチとは一味違った角度からお話しできることが私の役割だと考えている。皆さんも機会があれば太極拳に親しんでみてほしい。別に武術に限らない。太極拳は、私もまだまだ知らない側面をもっていると思う。チャレンジして経験することで初めて知ることも多いだろう。それを素直に楽しめばよいのだ。もちろん縁があれば武術としての太極拳を私といっしょに追求するのも大歓迎だ。

私が初めて太極拳に接した40数年前は、中国の武術といえば、なんといっても映画「燃えよドラゴン」が印象的だ。スクリーンの画面いっぱいに鍛え抜かれた肉体で闘う姿がセンセーショナルだった。ブルース・リーこと李小龍主演の映画を全世界の若者が熱狂し、カンフーの真似をした。当時は、カンフーも拳法も空手も区別はつかなかったが一大ブームが起きて入門者が殺到した。

私の場合、最初空手を志そうとして入門数か月の時、中国武術の師と出会い直感的に入門を願い出た。私は強くなるための太極拳を求めた。入門当初は、師が秘伝という不思議なまじないをかけて、気がついたら超人的な達人になっているという幻想がどこかにあった。しかし、実際は日頃の練習は地味でコツコツと続けるしかなく、やはり幻想であることに気づいた。

私たちの練習の風景を紹介しよう。まず、ラジオ体操のように並んで同じ動作をすることはない。各自ばらばらに始めてそれぞれの練習内容も異なる。決まったカリキュラムは示されず、師から教わったことをひたすら復習しているだけだ。私の場合、そもそも空手をやろうと思って体を鍛え始めたところだったので、初歩的な動きをしても筋肉が邪魔をして本当に不格好だ。少し腕立て伏せや腹筋運動をやったくらいだが緊張はほぐれないし、カチカチの体だった。空手の直線的な動きを円の動きに変えれば太極拳になるなどと考えていたのだ。筋肉の使い方も異なれば、鍛え方も全てが異なるなど、当時はほとんど無知だった…。(次回に続く)

※ 初出 2020年9月21日 「HIROSHIMA PERSON」にて公開

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