内三合の心意気の番外編として、今回は映画「燃えよドラゴン」のワンシーンをテーマに取り上げてみたい。主演は、ブルース・リー(Bruce Lee)(1940~1973)(以下・李小龍)。
1973年、映画「燃えよドラゴン」(原題:ENTER THE DRAGON 龍争虎闘)がアメリカを皮切りに世界中で大ヒット。その後、始まるカンフーブームを巻き起こした。私も当時、魅了され、何度も同じ映画に足を運んだ若者の一人だ。躍動する肉体、ヌンチャク、怪鳥音(アチョー)等々、話題にしたい内容が満載だが、つい脱線しそうになる気持ちを抑えながら今回のテーマをお話ししたい。
その後、続くブームを支えた数多くのカンフースターの中でも私にとって李小龍は特別な存在だ。武術を魅せる数多くの映画俳優の中でも武術家としてのレベルが突出していた。その基盤となったのは、香港時代に修行した詠春拳だ。李小龍の師は、葉問(イップ・マン)(1893~1972)で香港における詠春拳発展の立役者である。2008年より、主演はドニー・イェン(甄子丹)、『イップ・マン 葉問』シリーズとして全5作が映画化された。この映画のラストシーンには、葉問の最晩年の弟子として若き李小龍が入門してくる場面もある。
詠春拳と言う門派には、同系統ではあるが「ごんべん」(言)のない永春拳という門派が存在する。開祖が同じだが、異なる地域で伝承され、技術体系も異なる。永春拳は、福州を中心に伝承されたため、“福州永春拳”と言う。一方、李小龍の習った葉問の系統は“香港詠春拳”と呼ばれる。私の場合、入門した初期の頃から福州永春拳に慣れ親しんだ。
李小龍は、1973年7月20日、32歳の若さでこの世を去り、映画の大ヒットを知ることはなかった。生きていれば数多くの映画への出演や監督・脚本などの幅広い活躍をしたことだろう。昨年、生誕八十年を迎えたが、武術家としての成長や変化を見ることができなかったことが惜しまれる。武術家も青年期、壮年期、老年期と経る中で身体の成長や老化とつきあいながら新たな境地を切り拓いてゆく。
弟子も老師のどの年代に指導を受けたかで拳風が異なるとされる。李小龍は、詠春拳をはじめとして様々な武術を研究し、その成果をまとめ、若くしてジークンドー(Jeet Kune Do、JKD / 截拳道)を創出した。あまりに早い死であったが、生没の年齢と遺した成果は関係がないかもしれない。現在も多くの同学の士によって脈々と継承されているからだ。
Don’t think. FEEL! (考えるな、感じろ)は、李小龍ファンなら誰もが知っている有名なフレーズだ。問題となる「考えるな、感じろ」のシーンは、李小龍が弟子に指導するところから始まる。お互い抱拳礼式(※1)で一礼すると「Kick me.」と自分に蹴りを放つように指示する。
Lee: Kick me.
Lee: What was that? An Exhibition? We need emotional content. Try again.
Lee: I said “emotional content”. Not anger! Now try again! WITH ME!
Lee: That’s it! How did it feel?
Stu.: Let me think…
Lee: Don’t think. FEEL!
リー: 蹴って来てみろ。(弟子は、状況を飲み込めないまま蹴りを放つ)
リー: 何だそれは見世物か?(こめかみを指差しながら)大切なのは気魄だ。さあもう一度。(弟子、感情をむき出しにして蹴る)
リー: いま気魄だと言ったはずだ。怒りとは違う。さあもう一度、(”With me”を強調しながら言う)私と一緒にやってみよう!(弟子、間合いを図りつつ、無心になって鋭い踹脚(※)を放つ)
リー: そうだ!何か感じたか?
弟子: えーっと…考えてみますに…
リー:(弟子の頭をひっぱたきながら)考えるな、感じろ!(”With me”と同様に”Feel!” を最も強調)
ここでフレーズの核となる概念「emotional content」について、一般的な邦訳の字幕では、「五感を研ぎ澄ませるんだ」と訳されている。これでは「怒り」との文脈が繋がらないので、私は『意念』と解釈している。意念という言葉は一般的ではないことや映画の字幕としての納まりから私の訳としては「気魄」とした。本当なら「意念」または「静かなる覇気」(※2)としたいところだ。
五感を研ぎ澄ますことは確かに必要である。何のためか?相手がどう出てくるかを感じて的確に対応するためだ。相手の動きを見て、頭で考えてから反応するのでは遅い。
確かに敵と対峙したとき「五感を研ぎ澄ます」必要はあるが、隙を狙って打ち込む瞬間は、本能的な『ここだ!』という意識や感情に突き動かされているはずだ。冷静かつ鋭敏に感じ取り判断することと、機(タイミング)をみて的確に打ち込む集中力の両輪が必要である。
実戦では本来の技量の1/10しか発揮できないとさえ言われる。そのため「練習は実戦を想定」し、相手との間合い・呼吸をイメージしながら蹴り込む。蹴りのための蹴りではない。相手を倒すための蹴りなのだ。練習であっても単に宙を蹴るのではなく、実戦における相手を想定しなければならない。さらに「実戦は練習のように」行い、実戦においては日頃の練習のような心持ちで臨み、緊張感を楽しむくらいの心の余裕が必要とされている。逆に練習時には、実戦における心の緊張感や恐怖感を呼び起こすことが、意念の鍛錬に欠かすことができない。
映画の場面で最初、弟子の行った蹴りは、単なる蹴りであり、相手が存在しない。それ故、弟子の蹴りを見世物かと叱ったのである。さらに、二回目の蹴りでは諫められたことに対する反発のせいか、師の前でありながら苛立ち、怒りの感情がにじみ出る蹴りとなってしまった。感情に支配された蹴りでは思わぬ隙をつくって、足をすくわれかねない。そのため、さらに「怒りとは違う」と諭されてしまう。
そして意念を用いた蹴りについて「内面の感覚をどうとらえたのか」を問われたのに、弟子は「考えてみると」と答えたので弟子は再度叱られてしまう。弟子は、「素直に感じたまま」を回答しなければならなかったのだ。「蹴ってみろ」と言われるままに体を動かしているだけでは、永遠に相手を倒すことはできない。常に相手との相対性の中に技術は存在する。二回目の叱咤で「with me」と強調しているのが、まさにこの部分なのだと思う。
このシーンの最後、抱拳礼式で練習を締めくくる。弟子は視線を落として礼をしてしまったので、またペシリと頭を叩かれてしまう。これは、道場剣法・畳水練を戒めるシーンで、形だけの礼式ではなく、隙を見せず常に相手を意識した武術家の作法といえる。抱拳礼式の前の「考えるな、感じろ」のシーンには続きがある。弟子を諫めた直後のリーは、静かに次のように語り出すのだ。(続く)
【注釈】
※1 抱拳礼式とは、右拳を左掌(四指を伸ばした親指は開く)で包み込むような手型の礼式。相手から見て右手が「日」左手は「月」で合わせて「明」(明王朝を指す)となる。転じて清の時代に満州民族の支配を受けたことから漢民族の明王朝を復興するという「反清復明」の志を表わすことがある。
※2 「意念」及び「静かなる覇気」について、Vol.13 内三合 内なるエネルギーの秘密(その四)を参照。
※3 踹脚(たんきゃく)とは、空手における横蹴り。足のアウトエッジを使う場合と足裏全体を使う場合がある。中国武術では、側踹腿など呼称も様々。足技を用いた蹴りの体系を腿撃技術と呼ぶ。
※初出 2021年12月14日 「HIROSHIMA PERSON」にて公開
「中国武学への道」の記事一覧はこちら
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