太極拳の「太極」とは一体なんだろうか?「太極」という言葉はとても古く、中国の古典、「易(経)※」の中に見ることができる。中国に限らず古代より人類は、天災・地変・飢饉・戦乱にさらされてきた。易は、不確実で見えない未来を予知し、天変地異を予言する技術として発達した。さらに何気ない日常から始まり宇宙に存在するあらゆるモノとコトを深く観察し、大宇宙の森羅万象の起源・生成を解き明かす帝王の学問として重要な位置を占めるにいたった。
この学問においては、世界は絶えず陰陽という二つの要素が「変化」することがその本質だととらえた。「易」を、簡易のように簡単の意味の「い」ではなく、変化の意味の「えき」と読むのもそのためだ。ちなみに、英訳は「Book of Changes」、ズバリその本質を示している。陰陽の二気が常に「変化」し、万物を生成していく宇宙(万物)の根源が「太極」であり、シンボライズされたものが「太極図」である。正式には陰陽太極図や陰陽魚という。次の図を観て(※)いただきたい。
太極図は、勾玉を二つ合わせたような意匠となっている。太極図では、陰が黒、陽が白で表わされている。陰と陽が真ん中で完全に等分されているのではなくS字で区切られ、流動的に回っているかのように描かれている。これは、陰が強くなるとやがて陽へ、陽が強くなるとやがて陰へと変化していくことを表現している。例えば、下のような二元論の図だと、分離したまま陰陽の流動がない。対立と分断が生じたままに観えるのではないだろうか。
しかし、下図のように陰陽がS字で区分された形では、流動的に観えるだろう。ただ、陰陽は分断されたままの印象ではあるが…。
太極図では陰を表わす黒色の中には白い円「〇」(陽の芽)が、陽の白色の中には黒い円「●」(陰の芽)が描かれていることに注目していただきたい。下の図のように別な太極図(陰陽魚)では、〇が陰陽それぞれの魚の眼を表わし、二匹の魚が絡み合って、相手を飲み込もうとする様子に見立てることが出来る。この図では、陰陽は左右で反転し、陽の中には、魚の鱗(うろこ)が描かれている。
再度、下の太極図(説明付き)で時間という切り口から観てみよう。図の外縁(円)は一回りで一日24時間、一年12ヶ月とみなすことができる。日の出(春分)を迎えると一日(一年)が始まり次第に陽は白く明るく澄みわたる。太陽は天に昇り陽の力を生み出す。陽の極(きわ)みの正午(夏至)を越えると次第に陰の力が増し、次第に太陽は傾き、陰は重く濁って大地深く沈みこみ、陰の力となる。日の入り(秋分)、そして陰が極(きわみ)の冬至を迎える。そして新たな陽が生まれ次の朝(春)へと陽のエネルギーに満たされてゆく。こうした朝昼夕夜(春夏秋冬)、一日(一年)の循環が悠久の時を刻んでいる。
中国ではこのように陰陽の働きを互いに対立し、世界を二分する別々なものとはとらえなかった。太極図が示すように陽はいつの間にか陰の中に吸収される。陰もまた陽のなかに呑み込まれる。互いが互いを吸収しあい、絶える事のない流動の渦を生み出してゆく。太極図のもっとも卓越した着想は、陽の中心、陽が最も輝いている中に陰の芽があることだ。その芽は次第に成長し陰が勢力を増していく。対極の力を相互の中心に抱き込み、取り込みながらダイナミックな生々流転(せいせいるてん)を繰り返す。太極図は、そのような変転を包み込む「渦」で表現した図だ。
「易」は東洋思想の根幹にも関わり、私達日本人にも想像以上に影響を与えている。「易」の「変わる」という意味を仏教では「諸行無常」という言葉でとらえている。世の中の事象、つまりありとあらゆる出来事は常に変化し、一時も留まることがないと…。
「諸行無常」と聞くと日本人は、平家物語の冒頭の一節を思い浮かべるだろう。この一節を現代語に訳すならば、「祇園精舍の鐘の音には、この世の事物は絶えず変化するという響きがある。娑羅双樹の花の色は、どんな栄華を誇る者もいつかは必ず衰えるという道理をあらわしている」となる。
このように平家物語の有名な一節は、「諸行無常」という仏教用語を使い、きわめて仏教色が強い印象を与える一方で、次の文で花(沙羅双樹)を例に出すことで、必ず「色落ちて枯れる」という衰退を強調している。内容は「もののあわれ」という情緒的な虚無感を表現したものとなっている。ただ、仏教が伝える「諸行無常」の本来の意味は「易」と同様「万物は変化する」ということ。「盛者必衰」だけでなく成長や再生、誕生の意味も含まれていると。次回、太極拳の特徴から「易」との関係を見てみよう。太極拳と名付けた意味を納得いただけるはずだ。
※「易(経)」は周王朝(紀元前1050~722)に成立したとされる書。著者は伏羲(古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王)とされている。「周易」とも呼ばれる。儒教や玄学では基本書の一冊とされており、その場合「易経」と経の字をつけて呼ぶ。
※ここで「見」ではなく「観」の字を用いたのは、「観」の字に含まれる「物事を丹念に見る(観察の観)」という意味を強調したかったからだ。単に目に映すだけでなく、湧き上がるイメージと共に注意深く大切に観てほしい。
「観」の字は、今後も私の文章の中で重要なキーワードとなる。楽しみながらそして注意しながら観ていただきたい。
※正子(しょうし)とは、「正午」(しょうご。午(うま)の刻)の対義語である。1日を2時間ずつ12に分け十二支(干支)をあてた昔の時刻の呼び名では、午後0時は「午の刻の中心」で「正午」、午前0時は「子の刻の中心」で「正子」という。北は「子」、南は「午」というように干支は、方位もあらわしていた。南北を、子午線というのは、この方位からきている。
※初出 2021年2月2日 「HIROSHIMA PERSON」にて公開
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