Vol.10 内三合 内なるエネルギーの秘密(その一)

皆さんは、「心意気(こころいき)」という言葉をどのような意味にとらえるだろうか?「上司に私の心意気を伝えた」とか、「その心意気やよし」「あの人の言動にとても心意気を感じる」というように前向き・積極的・気概など、意志の強さや、自分自身の気持ちを奮い立たせるポジティブな言葉として使うと思う。私たちの使う日本語では、「心意気」は「心」と「意気」からなる熟語として説明される。意志や感情をつかさどる「心」と、目的・目標を達成し、やり遂げようとする強い気持ちや考えを「意気」と表している。日本語の場合、感情をつかさどる「心」と「意」そして「気」の境界線はあいまいだ。

一方、中国武術家に「心意気(しん・い・き)」を尋ねるとまったく異なる意味として答えるだろう。もともと「心意気」は、「心」「意」「気」とそれぞれ明確に分類されたものだった。昔日の武術家は、手足をはじめとする外面の攻防技術は、内側の心のありようや意識の持ち方の影響が大きいと考えた。言い換えると、心と意の操作によって外面に現れる身体技術が初めて真価を発揮する。この重要性を体験的にとらえ体系化したのだ。今回のシリーズは「内なるエネルギーの秘密」と題している。「心」「意」「気」についてそれぞれ中国武術家の視点を何回かに分けてお話ししよう。心意気それぞれが重要な役割を持っていることをお伝えしたい。

中国武術において、内なるエネルギーの関係を「内三合(ないさんごう)」といい、口訣(※)として以下のように伝わっている。原文:「内三合是 心与意合,意与气合,气与力合」。日本語訳としては、「内三合とは『心と意』『意と気』『気と力』が一致する事である」(なお、ここで云う「力」とは、筋力の事ではなく、「気」の発露によって威力として現れた現象としての「力」とでもいうべきものである)。

一方、身体の外面の統一を指す口訣を「外三合(がいさんごう)」という。「外三合」と「内三合」併せて「六合(ろくごう)」(※)といい、中国武術においては重要なキーワードとなっている。ちなみに、六合の名を冠する門派として六合拳、心意六合拳、六合螳螂拳、六合八法拳などが有名だ。この中で心意六合拳は、陳氏太極拳へも大きな影響を与えたとされている。まずは、内三合の「心(しん・こころ)」からお話ししてみたい。太極拳に限らず武術修行者が直面する「心」に関する問題を二つ例に出してみよう。

第一に「恐怖にかられた心」の問題。実戦において命の危機を感じた時、ひとたび恐怖にかられ、平常心を失うと緊張を通りこし、パニック状態となってしまう。手はこわばり、足はガクガク震え、心臓は鼓動で脈打ち、汗が噴き出してくる。顔面蒼白となり、口は乾き、頭の中は真っ白となってしまう。このような恐怖のどん底に陥った状態だと日頃の鍛錬の成果はどこかに吹っ飛び、武術の成果を得ることは難しい。このような状態に陥るような練習体系しか持っていないことを、日本古武術においても「道場剣法」や「畳水練」などと忌み嫌った。日本の武術家(兵法家)や、戦(いくさ)に赴く武将達は、毘沙門天や摩利支天(※)といった神仏の加護を祈り、覚悟を決め肚をくくった。

武術の生死のやり取りをするこうした描写を他人事、別世界の事と片づけないでほしい。武将の覚悟、肚のくくり方と次元が異なると言ってしまえば、それまでかもしれない。確かに私達の住む現代の日本では、幸いにも戦時下でもなければ、戦いに破れたり、失敗したりしても、それがそのまま死に直結することは少ない。かつて日常であった死が次第に非日常化しているかもしれない。だが、現代人には現代人の苦悩があるはずだ。生きることが命がけであることに大きな違いはないのではないだろうか?漠然とした未来への不安や見えない将来への葛藤は、いつの時代も同じように私たちを試練に駆り立てる。

そして私たち人間は、必ず最期に死を迎える。それが目前のことか先のことかは誰も知らない。遅かれ早かれ、いつかは全ての人に必ず訪れる現実だ。死が非日常となりつつある現代の私たちは、その現実を日頃は忘れている。あるいは棚上げして見ないふりをしているだけかもしれない。武術家(武将)は心得として「常在戦場」の覚悟をもっているだけだ。

第二に「心が折れて挫折してしまう」問題。中国武術の修行において一定のレベルに到達することを私の一門では「大成」すると称していた。ところが、私よりもはるかに高い素質を持つと思われた同門の兄弟弟子が脱落したり、離脱する例を多く見てきた。武術修行に限らないが最も難しいことのひとつ、それは最後まで情熱を維持できかどうかである。もちろん武術における大成が人生の最大目標ではない。時として武術修行を断念し、方向転換する場合でもすべての経験を自分の糧とすることが、その人の人生にとっての大成するということだ。

さて、武術修行以外にも人生ではさまざまな「心」が原因となる問題が発生する。不安、焦り、劣等感(コンプレックス)、失意、成長の壁(スランプ)、ネガティブな性格、完璧主義、逆境、取り巻く人間関係、現実からの逃避など、数え上げればきりがない。実は、ほとんど全て自分自身の心が原因となっている。これらを克服するには、どうしても成し遂げたいという強い想いや、飢餓感(ハングリー精神)が必要であり、それは魂の強さと言い換えることができるかもしれない。ポイントとなるのは、ありのままの自分を受け入れることから出発し、新たな視点を獲得することにより、いかに失敗や挫折を成長の糧として障碍や壁を乗り越える力をもつことといえるだろう。

中国武術の先人は、この「心」に関する問題をいかに解決しようとしたのであろうか?

次回、陳氏太極拳の門を叩いた修行者なら誰もが知る聖典(バイブル)である『陳氏太極拳図説』からこの問題解決のヒントを紹介しよう。

【注釈】

※口訣(こうけつ・くけつ)とは、老師より弟子に文書に記さないで、口で直接言い伝える奥義・秘伝のこと。口伝(くでん)ともいい、技術のポイントを指すもので初歩から奥義にいたるまでさまざまな段階がある。二文字あるいは四文字の熟語や詩歌と形式もさまざま。

※六合には、別な意味として上下(天地)と前後左右(東西南北)を合わした世界をあらわす意味がある。この場合の日本語の読みは六合(りくごう)という。

※古来、軍神としては毘沙門天が名高く、毘沙門天の化身とまで言われた上杉謙信の他、謙信のライバルであった武田信玄も毘沙門天(摩利支天との説も)を崇めたという。謙信は、「生を必するものは死し、死を必するものは生く」の名言を遺した。摩利支天は、広島の毛利元就の軍旗に「摩利支天の旗」が知られ、徳川家康をはじめ、山本勘助、前田利家、楠木正成などの戦国武将に信仰されていたと伝えられる。

※初出 2021年6月3日 「HIROSHIMA PERSON」にて公開

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