Vol. 28 外三合 弓矢と勁 番外編(前編)

外三合の勁と弓矢の関係について、前回まで三回にわたって紹介してきたが、今回は弓矢(弓箭)の時代背景や歴史について触れてみたい。

考古学における人類の進化上、ネアンデルタール人では弓矢の痕跡は見られない。通説では、最終氷期が終わった時期、約1万5千年前の現生人類によって発明されたといわれていた。最近になって約6万4年前の南アフリカ、約4万8千年前のスリランカの洞窟で最古の弓矢(※1)が次々と発見されている。原初期、森の中でも持ち運びに便利な小さくて軽い弓を狩猟で用いたが、次第に戦いや儀礼にも用いられるようになった。材料も原初期の弓は丸木弓(まるきゆみ=単一弓)であったが、やがて複数材料を用いた弓(複合弓)も生まれ、長さの短い短弓から長弓も発明された。

日本では弓の長さが2mにもなる長大な和弓も発明された。三世紀末「魏志倭人伝」によると”兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃”「下に短く上に長い木弓、竹矢に鉄又は骨の鏃を用いる」(※2)とあり、独特の長弓がすでに用いられていた。日本の和弓以外では矢を番えた時、弓の上下の中央部で弓を番えるのに対し、和弓では下から三分の一に握(にぎり)がある点で特異な存在だ。矢の番え方も現代では、和弓では弓の右に矢を番え、洋弓(アーチェリー)では弓の左に矢を番えるようだが、歴史的には洋弓や中国の弓では弓の左右それぞれの番え方があったようだ。矢の引き方や指使いも様々に工夫されている。

日中の弓の事情についても触れておきたい。日本において刀剣が戦場において主たる武器であるかと言えば、実は必ずしもそうではない。戦国時代の合戦場、馬上で白刃を振るう武将、日本刀で渡り合う武士というイメージは後世に作られたものだった。

それでは戦国時代の主力武器は何だったのだろうか?武士が持つ武器の代表は弓矢であった。源平合戦の頃には、武士としての生き方を「弓馬(きゅうば)の道」(笠懸・流鏑馬など弓術と馬術は一体)と呼んだ。戦国武将たちが書いた手紙でも、合戦(いくさ=戦争)のことを「弓矢」と言ったり、武将のことを「弓取り」(※3)と呼んだりしている。

織田信長が鉄砲を用いて武田騎馬軍団を撃破したことによって、合戦における武器の主役は転換点を迎えた。鉄砲伝来の 1543年(天文12年)、種子島に火縄銃が伝えられたわずか半世紀後、関ヶ原の戦いの頃には50万丁以上の銃が生産され、日本は世界最大の銃保有国であった。日本一国でヨーロッパ全土の保有数を凌駕していたのである。鉄砲の伝来により、弓矢は武器としては時代遅れになりつつあったが、武士道の修行として弓道が確立していった。精神的な側面を深く追求する徳育として発展し、今日に至っている。精神的な側面の由来は、中国の儒教に見ることができる。

古代中国において、卿・士大夫と言われた支配階級(貴族)は「六芸」(りくげい)を学んだ。儒教の経典『周礼』(しゅらい)(※4)によれば、六芸は「礼・楽・射・御・書・数」である。芸とは、古代中国において士分以上の人に必要とされた教養を指す。

礼:礼節を表し現代の道徳教育
楽:音楽、詩歌、舞踏
射:弓術(射箭技術~箭とは矢の事)
御:馬車(戦車)を操る技術
書:文学、書法
数:算数(面積・税の分配・土木計算等)

このうち武芸に関係しているのが射と御で、いずれも春秋時代の戦争に必須の技芸であった。儒家は、弓術を射芸とし、後に文化的・儀礼的性格が強い芸道とした。孔子(こうし)の弟子三千人のうち「六芸」に通暁した者は七十二人といわれる(『史記』孔子世家) ”六藝(りくげい・六芸)”は漢籍によく出てくる言葉だ。孔子のイメージは、髭をたくわえ物静かな文士であるが、実は戦車(※5)を操る弓矢の達人でもあった。歴史書『史記』を編纂した中国前漢の歴史家司馬遷(しばせん)は、六芸とともに孔子が軍事的な素養に優れ、戦術や作戦にも優れていたことを記述している。

中国における華北の平原地帯において殷周期から春秋時代までは、貴族の乗る戦車に数十人の歩兵が付き従う形式が戦場の主役であった。戦車には、馬(二頭または四頭)を操る御者、御者の左側に弓を持つ左士、右側に長柄(ながえ)の戈(ほこ)を持つ右士の三人が乗る。まず弓矢を放ち、接近戦で戈を使う。負傷して転落した敵を歩兵(従卒)がとどめを刺す。戦国時代に移ると北方の騎馬民族との争いが激しくなる。弓や弩(弩弓=クロスボウとよばれ、弓を横にしたライフル銃のような形状)といった飛び道具の進化と歩兵の大量動員により、戦争の形態も変化していった。戦車よりも機動力の高い騎馬が主力となり、小回りがきかないうえ、敵からの的(まと)になりやすい戦車は衰退していった。

紀元前4世紀に北で遊牧民と境を接していた趙の武霊王が北方の騎馬民族の習慣を取り入れ、軍制を改革した。遊牧民のズボン状の衣服(胡服)をまとい、騎馬上から弓を射る形式で「胡服騎射」(こふくきしゃ)に象徴されている。中国において弓矢が主役を譲るのは、ずっと後世のことである。

【参考文献】
本当は危ない『論語』 加藤徹著 NHK出版新書

【注釈】
※1 「Science Advances」誌6月12日(SCIENCE ADVANCES 12 Jun 2020 Vol 6, Issue 24 DOI: 10.1126/sciadv.aba3831)
※2 邪馬台国の会講演会記録より 第359回 稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)2017.5.28

※3 弓取りとは、例えば、徳川家康を「海道一の弓取り」のように弓術の優れた武将を尊称した呼び方。海道一とは、東海道で一番優れたという意味で、「海道を制する者が天下を制す」と鎌倉時代から伝えられている。相撲においても本場所で結びの一番の後に弓取り式があり、伝統が受け継がれている。古くは、平安時代の相撲節会(せちえ)で,勝者の近衛側から舞人が登場し,弓を取って立合舞を演じたのが起源とされ、勝力士に弓を与えることは織田信長に始まる。江戸の勧進相撲では千秋楽の結びの3番の勝力士に対し大関相当者に弓、関脇相当者に弦、小結相当者に矢一対を与えるようになった。現代では次第に儀式化し、1952年1月場所からは毎日弓取式が行われることになった。(三役の勝力士に対する弓・弦・矢の授与は千秋楽だけ)。(相撲の部分は、百科事典マイペディア「弓取式」より抜粋)
※4 周公旦が著したとされる『周禮』(周礼)は、実際は春秋時代以降に周の禮(礼)を重視した孔子が纏(まと)めたとされる。『周礼』の思想は日本へも影響を及ぼし、朝廷行事としての射礼の儀が誕生した。源頼朝が鎌倉幕府を開いた12世紀、弓と馬の修練技術を通じて精神の高みに到達するという武士(もののふ)の道義が確立した。古来より「礼は小笠原、射は日置」と伝えられ、儀礼の「文射」軍事の「武射」と分類される。

※5 中国語で戦車とは、古代中国で使われていた戦闘用馬車・チャリオット(Chariot)のことである。チャリオットは、中国だけでなく古代エジプト・ギリシャ・ローマなどで二頭立て一人乗りの二輪馬車として戦闘・狩猟・競走などに用いられた。
第一次世界大戦時に誕生した現代戦車を中国語では、tankの音を漢字化した「坦克」という。映画『ベン・ハー』(1959年、監督:ウィリアム・ワイラー)・原作はルー・ウォーレスの同名小説)では、チャリオットの激走シーンが有名である。2017年『ベン・ハー』が現代の最新映像技術でリメイクされ日本公開された

【写真解説】
①歌川芳虎 作「大日本六十余将 伊豆 北條相模守時政」の浮世絵。巻狩りの準備を担当した鎌倉幕府初代執権・北条時政。左手に弓を持ち、腰に太刀を佩いている。提供:一般財団法人刀剣ワールド財団
②一台の戦車に馬二頭を「御」つまり、御者が制御している。両脇に「射」の弓箭(弓矢)と矛(ほこ)の兵士の三人体制となっている。
③双方が騎馬戦において便利な胡服となっている。左の胡人が矢を放ち、右の漢人が矛(ほこ)にて応戦している。

コメント

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました
inserted by FC2 system