Vol.33 外三合 過渡勢と定式 (後編)

前回は、孫子・勢編の一節より前半の「勢」に注目した。

激水之疾、至於漂石者、勢也、
(激水の疾くして、石を漂わすに至る者は勢なり。)

兵法の「勢」とは激流の持つ一気呵成に押し流す力であり、太極拳の「勢」を渦(うず潮や竜巻)の翻弄する力であると観て解説した。

今回は後半の「節」や「機」に焦点をあてよう。
「節」とは、相手を一撃で打ち砕く絶妙のタイミング(機)である。

鷙鳥之疾、至於毀折者、節也、
是故善戰者、其勢險、其節短、
勢如張弩、節如發機

『鷙鳥の撃ちて毀折に至る者は、節なり。
是の故に善く戦う者は、其の勢は険にして、其の節は短なり。
勢は弩を彍るが如く、節は機を発するが如し。』

『鷙鳥の撃ちて毀折に至る者は、節なり。』

鷙鳥が急降下して、一撃で獲物の骨を打ち砕くのが節(節目)である。

鷙鳥(しちょう)とは、鷹(たか)や鷲(わし)・隼(はやぶさ)など動物を捕食する猛禽類の鳥で、生態系の頂点に君臨している。
世界各地で鷹狩の伝統が見られ、日本においても公家の宮廷行事や神事、織田信長や徳川家康をはじめとする武将の嗜(たしな)みとして知られている。古代中国人の孫子は、どのような鷙鳥が捕食する場面を観たのだろうか?
鷹・鷲・隼はそれぞれ捕食のスタイルが異なっているが、鷙鳥は鋭い爪を備えており、掴む力の強い足と鉤形(かぎがた)に曲がった鋭い嘴(くちばし)が共通している。

数百メートル先の獲物を驚異的な視力で精確に捉え、獲物目がけて急降下する威力は凄まじく、一撃で相手を打ち砕いて捕らえることができる。

猛禽類が急降下して獲物を打ち砕く事ができるのは、鋭い爪と嘴を兼ね備えているからだけではない。一瞬のチャンスを逃さず絶妙のタイミングで爆発的な瞬発力を用いるからである。ここぞ!というときに一気呵成に実行に移す「それが節目(の効力)」である。「節目」とは、一瞬の区切りのことを指す。

そうすると套路において定式は区切りではないと前回説明したことと矛盾しているように思えるが、決してそうでない。例えば、竹の幹が「節」でつながって連続した一本となっていることと似ている。「節」があることにより、竹が「軽さ」と「強さ」を併せ持つ理想的な構造を「自律的に」形成している。節があることによって雪の重みや強い風雨にも耐えることができる。もちろん套路と竹の構造が同じわけではないが、一本の竹に節があることによって真っ直ぐ空に向かって伸びていくように、套路にも節に相当する部分が存在すると言える。套路の中にある竹の節に相当する部分について見てみよう。

陳氏太極拳の套路の中にしばしば急激に発して、定式の動作が一瞬止まるように見える技法がある。多くは掩手肱捶(演手捶・演手紅捶)・指襠捶などの拳による突き技であり、技法名の最後に「捶」の字がある。「捶」とは、拳によるパンチのことである。一般的には打った直後に拳を引くが、打ちっぱなしで腕が伸び切ったままなので一瞬止まっているように見えてしまう。しかしこの定式の動作は、外見からは止まっているように見えても「断勁」を生じているわけではない。

演手捶(過渡式-01)
演手捶(過渡式-01)
演手捶(過渡式-02)
演手捶(過渡式-02)

次の句で理解を深めてみたい。

『是の故に善く戦う者は、其の勢は険にして、其の節は短なり。』

戦の巧みな者の勢いは険しく、その節は短(一瞬・瞬間)である。

孫子の兵法でいう「節」を自然現象の中に観るなら眩しい閃光とともにエネルギーが一気に放出される雷(かみなり・いかずち)が最もふさわしい。雷に打たれた者は、瞬時に昏倒し極めて危険な状態となる。

前回取り上げた「勢」との関連を見るために、今回は「滝」を取り上げたい。地殻変動や侵食作用などで発生した段差で突如十数メートルも水が落下した水流は、衝撃力(撃力)となって叩きつける、この瞬間が「節」である。水の落下は一瞬でその勢いは急激で険しい。さらに水の流れや勢いは落ちた先で止まらず、深い滝つぼを形成する。その中では複雑な水流となって、滝つぼに巻き込まれると容易に脱出することができず、おぼれてしまう事さえある。

演手捶(過渡式-03)
演手捶(過渡式-03)
演手捶(過渡式-04)
演手捶(過渡式-04)

「捶」は、「捶撃」とも呼ばれるが、しばしば「拳」あるいは「拳打」と対比される。「拳打」は、打った拳をすぐに引くが、「捶撃」は螺子釘(ネジクギ)を打ち込むようなイメージで突きっ放しにしてねじ込む打法である。「捶撃」は、深い滝つぼに叩きつけられた後の複雑な水流のように相手の身体の内部に波紋を広げエネルギーを浸透させてゆく。套路の上では、反作用となって戻ってきたエネルギー(勢)が自らの拳から腕そして身体へと戻り、途切れることなく次の技法へつながっているとイメージしている。

演手捶(定式)
演手捶(定式)

日本人である私たちは日常的に滝をイメージしやすい。広大な土地を持つ古代中国人の兵法家・孫子は、弩弓(※1)の中に「勢」や「節」を想像した。

『勢は弩を引くが如く、節は機を発するが如し。』

勢は弩を引くようなもので、節は機を発するようなものである。

弩線圖
弩箭圖

弩弓の弦をぐーっと引き絞って機の部分に弦を設置することで力(勢)を極限まで蓄積することができる。タイミングを見計らって引き金をパッと離して矢を放つ(節)。
「勢」は力を溜めて蓄えた状態、「節」は攻撃するタイミングを示している。
「機」とは、この句では外面的(物理的)な弩弓の部品で、弩弓の引き金(トリガー)を構成する部分を機(弩機)という。

弩弓 機の構造 戦国時代
弩弓 機の構造 戦国時代


「機」は外面(外三合)だけでなく、内面(内三合)にも観ることができる。内面の「機」は仏教の禅宗が「機」を重んじていることに由来する。まず内面(内三合)の「機」を観て、その後に外面(外三合)の「機」を観てゆこう。

柳生宗矩が『兵法家伝書』で説く「機」は、Vol.14 『内三合 内なるエネルギーの秘密(その五)』において紹介したように敵のタイミングを事前に制することを指している。これを「機前」といい、敵の気勢を挫いてしまうことが必勝の極意とされた。機先を制するというように機には、この他にも機会・危機・好機・動機・臨機応変などタイミングを意味する言葉がある。
また、「石火之機」(※2)では、物事に捉われない心持ちの大切さを説いている。石火とは「電光石火の早わざ」というように火打石から発せられる火花が石を打てば間髪を入れず即座に動く瞬発力を示しているようで、実は異なっている。素早く動くことが重要なのではなく、迷いや執着を超えた心を物に留めないことが肝腎であると沢庵和尚は言っている。中国武術の解釈で見ると沢庵和尚の言説は内三合、つまり内面の心意の働きである。

テーマが外三合なので、あえて私なりの解釈で説明させていただきたい。いくら速度(スピード)の速い動きや打拳を放つことができてもタイミングが合わなければ「むなしく空を切る」ばかりだ。「ここぞとばかりに」機会をとらえることができれば、最小限の勁力と動作であっても有効な打撃とすることができる。宮本武蔵が「五輪書」水の巻において「石火のあたり」を説いている考えに近い。間合いが密着している状態で瞬間的な隙をとらえ、振りかぶらずに足・腰・手首を総動員して小さく鋭く打つと説明している。

このように「節」や「機」は、内面(内三合)と外面(外三合=「形」)が一体になって「勢」となり勁を構成してゆく。これを「内外相合」(ないがいそうごう)と称している。「節」や「機」はあくまで一例であり、それぞれの訣語(ポイント)に対して内外・表裏・陰陽・正奇など角度を変えてみることによって理解が深まってゆく。

【注釈】

※1 弩弓とは、クロスボウ(ボウガン)と同種の道具でライフル銃のような銃床に弓を水平に取り付けた形をしており、引き金をひいて矢を発射する。西洋では、14世紀初めにいたとされるスイスの英雄ウィリアム・テルが息子の頭にりんごを置き、クロスボウでそれを射抜いたことで有名。
中国では遠戦術の場合、弓と弩の二段構えであったが、日本にも弩は輸入されたものの、次第に弓に集約されていった。

弩弓(小野春風・菊池容斎『前賢故実』巻第四 より)
弩弓(小野春風・菊池容斎『前賢故実』巻第四 より)

※2 不動智神妙録 柳生宗矩へ宛てた禅僧沢庵の至言

【写真解説】
陳氏太極拳・老小架の演手捶。この技法について「陳氏太極拳の中で、演手捶はもっとも愛されてきた技法である。」と杜毓沢師と潘作民師(両師は台湾における陳氏太極拳の重鎮)が、生前お二人の対談にて遺されたお言葉である。

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